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東京地方裁判所八王子支部 平成11年(わ)413号 判決

②事件

主文

被告人は無罪。

理由

一  本件公訴事実は、「被告人は、平成一〇年一一月七日午前八時四五分ころ、東京都清瀬市旭が丘〈番地略〉所在のビリヤード店「ビリヤードハウスアムール」の二階において、中田満所有の同店出入口ドアガラスを割って(損害額三万八八八〇円相当)他人の物を損壊するとともに、正当な理由がないのに、同ドアの施錠を外してエントランスホールに侵入したものである。」というのである。

(なお、第一回公判において、検察官は、右の公訴事実中に「中田満所有」とあるのを「中田満所有管理」と補正し、弁護人も右補正に異議がないとした)。

二  本件公訴事実の積極証拠は、右中田満の妻中田百合子の目撃証人のみである。

一方、被告人は、右公訴事実を否認し、当時、友人坂井一夫方で寝ていたとして無実を主張している。

そこで、右中田百合子の目撃証言の信用性と被告人のアリバイの成否を以下に検討する。

三  (中田百合子の証言の信用性)

1  中田百合子の証言の要旨は以下のとおりである(なお、同女の証言内容に揺れ動きがみられる)。

平成一〇年一一月七日午前八時四五分ころ、店の掃除などのため裏の非常口から店内に入ったところ、正面出入口自動ドアの外側のエントランスホールの中に黒い物体が見えた。新宿の方にいるホームレスが清瀬まで来てしまったのかと思った。鍵をかけてあったので不思議に思って近づき、自動ドアからちょっとそれたところから様子を見ていると、人がしゃがみ込んで、左手に黒っぽい袋を持ち、右手で何かごそごそやっていた。その後、花瓶から少し枯れていた生け花を取り出し、中腰になって、花瓶の中の水を下にジャージャーと撒き始めた。水を空にした花瓶を投げつけて自動ドアのガラスを割り、店内に入ってビリヤード台にいたずらをするかレジの現金を盗むのではないかと思い、花瓶の水を流し始めて三ないし五秒くらい経ってから、近づいて自動ドアの透明ガラスをドンドンとかなり激しく叩いた。中腰の犯人が、花瓶の水を流しながら私の方をぱっと見た。被告人と分かったので、私が、「えっ、甲野太郎さん。甲野さん。」と言ったところ、被告人はびっくりして荷物みたいなものを持ってさっと出て行った。被告人は、迷彩服のようなものを上に着てフードをかぶっており、黒っぽい、茶色っぽいようなだぼだぼの感じのズボンを履き、ぼさぼさとしたような靴を履いていた。フードから額の脇のくりっと縮れているような長い金髪が多少はみ出ており、短く綺麗に切りそろえた金色の口ひげも見えた。そこから追いかけて行くと刃物で刺し殺される心配もあったので、非常口の方から出て駆け足で追いかけたが、人影はなかった。すぐ自宅に戻って夫に話し、警察に電話をした。駆けつけた警察官と一緒に出入口ドアを確認したところ、鍵の近くのガラスに穴が開いており、ドアに取り付けた警報器がもぎ取られて、その辺にばしゃっと捨てられていた。

2  検察官は、右中田百合子の証言が、詳細かつ具体的であって、終始一貫しており、証言態度は真摯で偽証を疑わせる余地は全くなく、①同女の証言に合致するフード付き迷彩服も被告人から押収され、②被告人は本件当時髪の毛と口ひげを脱色して金色にした特徴的な容貌をしており、同女の証言する犯人の容貌と一致し、③同女が自動ドアのガラスを割ろうとしているように見えたとする花瓶が存在し、その花瓶は材質、大きさ、重量に照らすと十分に自動ドアのガラスを破壊する道具として使用し得る物であり、④同女の証言内容に合致し、矛盾する内容を含まない被害届も存在し、同女の証言を裏付ける物証などがあるとして、同女の証言が十分信用できると主張する。

しかし、被告人もまた同女と同様に一貫した否認供述をしているのであり、同女が一貫した供述をしていることをもって直ちに同女の証言の信用性を肯認できるわけではなく、どちらの供述が他の証拠によってその信用性を裏付けられているかを検討するほかない。

そこで、まず検察官の主張する同女の証言の信用性の存否を検討するに、被告人が、平成六年ころから頭髪を編み込み、その髪の毛や口ひげを脱色して金色にしており(乙5、6、11)、迷彩服も愛用していた(乙11)ことからすると、本件店の近くに住み、家賃を受け取るため被告人と会うなどとしていた同女が、以前から被告人の右容貌や迷彩服を愛用していることを知っていたとしても不思議ではなく、①同女が、犯人である被告人がフード付き迷彩服を着用していたと証言しており、そのフード付き迷彩服が被告人から押収されたり、②同女の証言する犯人である被告人の容貌が現実の被告人の容貌と一致していたからといって、同女の証言の信用性が格別に裏付けられたとはいえない。また、③同女が自動ドアのガラスを割ろうとしているように見えたとする大きくて重い花瓶が現実に存在するのも、それを置いたのが同女であることからすれば、当然のことといえる。④犯行直後に作成された被害届(甲31)に犯人として被告人の氏名が記載されており、そのほか同女からエントランスホールに入り込んでいる被告人を目撃したと聞いたとする夫中田満や駆けつけた警察官坂本洪二の各証言もあるが、しかし、これらによって裏付けられたのは、当初から同女が被告人を目撃したと供述していた、という点であり、その目撃状況及び犯人識別の正確性ではない。

(ちなみに、右被害届の被害の模様欄には「出入口を見ると男の人が居るのでおかしいと思い近よってみると逃げて行きました。その後調べてみると出入口のガラスが破られカギがあけられていました。逃げた男の人は、フード様のものをかぶっていましたが、以前店を貸していた「甲野タロウ」と言う人でした。」と記載されているにとどまる。そして、その約三か月後に本件店内に放火される事件があった翌日に作成された被害届(甲25)の被害の模様欄には「エントランスホール内に浮浪者のような男がバッグから何か出そうとしていました。私が出入口にゆっくりと近寄ると、その男は花瓶の水を捨てているので、これは自動ドアのガラスを割られてしまうと思い、ドアを叩くとその男は顔を上げ私と顔が合い甲野と分かりました。私が「甲野さん、何をするのよ」などと言う甲野は荷物を持って出入口から逃げ出しました。甲野は出入口ガラスドアに穴を開け、錠を外し侵入していました。」と記載されており、後者の被害届の方が同女の証言により合致している。

しかし、前者の被害届が被害直後に同女の説明に従って作成されたものであるのに対し、後者の被害届は、前者の被害届の作成名義人が中田満であったことから、約三か月後に起きた放火事件のいわゆる別件として本件の捜査を進めるにあたり、改めて目撃者である同女に被害届を作成・提出させたものであり、前者の被害届と差し替えるため、作成日を本件被害当日とし、東村山警察署での受付番号も前者の被害届のそれを移記したものである。そうすると、同女の証言の信用性を検討するには、被害当日作成された前者の被害届によるべきであり、検察官が、後者の被害届をもって同女の証言内容に合致する被害届が存在すると主張しているのであれば論外といわざるを得ない。)

そこで、同女の目撃状況及び犯人識別の正確性を裏付ける証拠の存否について次に検討する。

3  同女は、「犯人は、少し枯れていた生け花を花瓶から取り出し、花瓶の水を三ないし五秒くらいジャージャーと撒いていた」旨証言している。

その目撃が正確であれば、犯行現場に、少し枯れていた生け花が投げ出され、放置された花瓶の周辺には少なからぬ量の水があり、直後に駆けつけた警察官はそれらを現認したはずである。

(警察官坂本洪二の証言)

しかるところ、最初に到着した警視庁東村山警察署管内旭が丘交番勤務警察官坂本洪二は、第一回目の証人尋問において、「エントランスホールに植木が投げ捨てられ、鉢だけがあって、奥さんから、「中の物を投げ捨てて持ち上げ、内側の自動ドアを割ろうとしたような感じだったので、やめてと大きい声を出したら、そのまま置いて逃げていった。」と聞いた。直径二五センチくらい、高さが三、四十センチのもので、よく確認はしなかったが、植木鉢だな、という認識があった。青銅色というか青色というかそのような感じを受けた。水については記憶はしていない。根っこの付いたような物がぽんと落ちているというか、ばらまかれたというか、投げ捨てられたような状況で、陶製か何か分からないがそこに横たわっていた。入口には二つか三つくらい植木みたいなものがあったが、花瓶様のものもあったと思う。奥さんは、犯人は前に店を貸していた人で、どの辺りに住んでいる人だという話をした。」旨証言している。

なお、右坂本は、再度証人として尋問され、証拠物として提出された大型の広口徳利型花瓶(甲40、平成一一年押第二七九号の4、高さ約30cm、底の直径約13cm、最大直径約20cm、上部のくびれている最小直径約6cm、開口部直径約12cm)を示され、「色、形から言って、私が植木鉢だと証言したものと似ている。似ているが、分からないというのが正しい認識です。その周りに黒っぽく見えたので、植木鉢と思い込んでいたことから、土と見誤ったものと思う。前回は根っこが付いているように見えたと言ったと思うが、植物みたいな物が束になっていたので、そのように見えたと思う。蘭の花のような感じの束と見た。枯れたような葉っぱみたいな物もその周りに一緒に散らばっていた。水かどうか分からないような状態だった。」旨供述して従前の証言を変更した。

右の変更後の証言は、犯人が花瓶から少し枯れていた生け花を取り出して中の水を撒いたとする中田百合子の証言によく符合するものとなっている。

検察官は、「当初の坂本証人は、曖昧な記憶しかないにもかかわらず、弁護人からの質問に対しエントランスホール内に植木鉢があった旨証言し、以後それに引きずられてなした不正確なものであり、中田百合子証言と相違する部分の信用性はない。」旨主張する。しかし、坂本証人は、交番勤務の警察官とはいえ、初動捜査のため本件現場に駆けつけたのであり、坂本証人自ら、公判廷で、「第一に私が行きますから、現場を保存すべきものについてとか状況については、私が一番先に見分することになります。」と証言し、自己の職責を明確に認識していたことを明らかにしていたことからすれば、確かに店外からの逆光のためエントランスホールの床に転がっていた物体が見えにくい状況にあったにせよ、坂本証人が、重要な証拠物ともなり得る広口徳利型の大きな花瓶を植木鉢と見間違ったというのは不可解である。坂本証人は、第一回目の証人尋問において、弁護人から、「百合子さんは花瓶だという話でしたが、あなたは植木鉢で、土を見たわけですね。」と質問されて、坂本証人は、「そうです。」と答え、その後も花瓶ではなく植木鉢との認識であったと繰り返し証言していたのである。その証言状況からすれば、曖昧な記憶に基づく不正確なものであったとはみられず、右坂本が、再度証人として尋問された際、「検察官から、「あなたの証言は植木鉢ということだったが、中田さんは花瓶だというので、それについて、もう一度記憶を呼び起こしてみてくれ。」という話があった。被害者がそう言うのであれば、私の方の記憶違いかなと思った。」と証言していることからすると、坂本証人の証言の変更は、中田百合子の供述に迎合したものであり、第一回目の坂本証言の方が記憶にあるがままを述べたものであって信用できるといえる(ちなみに、中田百合子は、右坂本と検察官の面談後、花瓶に入っていたのは新鮮な生け花であると証言を変更している)。

そうすると、信用できる第一回目の坂本証言によれば、エントランスホールには、複数の植木鉢様のものがあり、その中に花瓶様のものもあったが、転がっていたのは植木鉢であって、根っこの付いたようなものが投げ捨てられ、土のようなものがあったが、水には気がつかなかった、というのであり、前記中田百合子の「犯人は花瓶から生け花を取り出し、中の水を三ないし五秒くらいジャージャーと撒いていた」旨の証言とは食い違っている。

(警察官大賀英典の証言)

その後まもなく臨場した東村山警察署勤務警察官大賀英典は、エントランスホールに大きな花瓶が倒れていたのを現認したと証言している。しかし、大賀証人は、倒れていたのは緑色のような高さが二、三十センチくらいある大きな花瓶であると証言するものの、その形状を述べることができず、前記花瓶を示されて、「このような花瓶です。」と答えるにとどまり、エントランスホール内に水がこぼれていたことや花束が落ちていたことについて、「記憶がない。」と証言している。大賀証人は、「器物損壊事件の犯行現場の実況見分をし、エントランスホール内からポラロイドカメラで店出入口ドアガラスの損壊状況を撮影し、侵入経路や破損場所等をメジャー等により計測して図面に数値や文字を記入した。花瓶等のことも臨場メモに書き込んだと思うが、それらは私物に紛れ込んで処分してしまった。」、「受付カウンターの中で、坂本警察官が中田満と向かい合って事情を聞いており、私は、坂本警察官の左横に行って中田満から事情聴取をし、実況見分は私がやっておくと言って、坂本警察官を帰した。」旨当時の事情聴取状況を明瞭に証言しているこすると、花瓶の至近距離を通ったことも認めている大賀証人が、花瓶の高さと色を述べたものの、その形状を述べることができなかったのは不自然であり、大賀証人は、本件犯行現場の写真等の重要証拠を紛失させたため、その代替として証言を買って出たのではないかとの懸念が生じ、花瓶を目撃したとする大賀証言の信用性に疑問が持たれる。なお、大賀証人が、エントランスホールを通って店内に入ったが、水が撒かれていたとの記憶はないと証言していることは、前記坂本証人の供述する現場状況と一致しており、中田百合子の「花瓶の水をジャージャーと下に撒いていた」旨の証言の信用性を揺るがすものといえる。

4  中田百合子は、「被告人は、迷彩服のような上着を着てフードをかぶり、黒っぽい茶色っぽいだぼだぼのズボンを履き、ぼさぼさとしたような靴を履いており、フードから額の脇のくりっと縮れているような長い金髪が多少はみ出ており、短く綺麗に切りそろえた金色の髭も見えた」旨証言している。

前記坂本・大賀各証人は、「中田百合子から、犯人が被告人であると聞いてその特定ができた。」旨証言しており、坂本証人が同女から聞いて作成した被害届(甲31)の犯人の住居、氏名又は通称、人相、着衣、特徴等欄には「犯人はフード付きのジャンバー様のものを着ていましたが、顔を見たところ、以前店を貸していた「甲野タロウ」に間違いありません。」と記載されるにとどまっていることからすると、本件被害直後、同女は、犯人はフード付きのジャンパー様のものを着ており、顔を見て甲野と分かったと説明したにとどまり、被告人に特徴的な編んだ金色の髪の毛や金色の口ひげ、迷彩服等の風体の詳細までは述べていなかったものとみられる。

そもそも、同女は、無人の店舗のエントランスホール内に入り込んでいる浮浪者風の者を発見して、不安を感じながら一人で近づき、自動ドアのガラスを叩いて追い払おうとしたのであり、その時点ではかなり心理的に動揺していたのであろうことは推測に難くなく、現に同女は「そのまま追いかけて行くと、刃物で刺し殺される心配もあった。」旨当時の恐怖感を証言していることや、午前九時ころとはいえ当時は曇天であり(甲50)、坂本証言によれば、自動ドアの内側の店内からはエントランスホール内に転がっている物体が植木鉢なのか花瓶か、床に散らばっているのが土か水かの目視判断が困難であったというのであるから、同様に店内から見た中田百合子が、争われている同女の視力の悪さの問題(右0.9、左0.5にとどまるのか)を度外視しても、エントランスホール内で中腰になり、ヤッケのフードをかぶって下を向いて作業をしており、自動ドアのガラスを叩いた同女を見てすぐ逃げ去った犯人を、逆光の店内から見て、「ヤッケを着てフードをかぶっていた」と認めたことはともあれ、「迷彩服のような上着」「黒っぽい、茶色っぽいだぼだぼの感じのズボン」「ぼさぼさとしたような靴」「フードから多少はみ出していた額の脇のくりっと縮れているような長い金髪」「短く綺麗に切りそろえた金色の口ひげ」と認識し得たのかはかなり疑問である(ちなみに、被告人は、本件当時口ひげを手入れせずに伸びしていたと供述し、証人坂井一夫も、被告人の口ひげが両方にだらんと伸ばしたような状態であった旨証言している)。フードの着用に被告人が髪型等を覆い隠す目的があったとすれば、被告人に着用させて再現させた(甲19)ように、フード等から金色の髪の毛をかなりはみ出させていたとは考え難い。そうすると、同女が犯行現場で目撃した犯人の人相、着衣、特徴等は、前記被害届に記載された「フード付きのジャンバー様のものを着ていた」というにとどまり、その余の犯人の人相、着衣、特徴等は、検察官の主張する単純な被害届への記載漏れあるいは聴取漏れの類ではなく、その後になって同女が、本件前に見ていた被告人の風体を加えて供述したのではないかという疑いが抱かれる。

5  中田百合子は、「自動ドアに取り付けた警報器がもぎ取られ、その辺にばしゃっと捨てられていた」旨証言するが、検分をした坂本証人は、現場に警報器は落ちていなかったと証言しており、これを取り付けた同女の娘中田恵里香も右中田百合子の証言を裏付ける証言はしなかった。

6  本件当日の犯行現場の実況見分調書は、犯行現場の客観的な状況を明らかにする重要な直接証拠であるところ、前述のとおり、大賀証人がこれに添付する現場写真等を処分したというのである。

それに代えて作成・提出された実況見分調書(甲7)は、本件の約三か月後の放火事件の翌日にその事件とは別個に本件捜査のために作成されたのであり、証人中田満の証言によると、本件店出入口のドアガラスの破損部分は本件当時よりもさらに五ミリ程度穴が広がっているというのであり、その経緯も判然としない。このような実況見分調書が本件犯行時の現場の状況を証明する能力に乏しいのはともあれ、同実況見分調書及び証人中田百合子らの証言によると、同女らは、本件被害後、右店出入口ドアの破損部分にテープを貼ってポスターで覆っただけであり、犯人が自動ドアガラスを破損しようとして手にした花瓶はそのままエントランスホール内に置いていたというのである。そうすると、同女らは、犯人が再度右ポスターを破って店出入口ドアの施錠を外して侵入し、エントランスホール内の右花瓶で自動ドアガラスを破壊する危険性のある状態を約三か月間も続けたことになる。資金面から出入口ドアガラスの破損部分を修理できなかったことは理解できるにせよ、自動ドアガラスを割ろうとした花瓶まで取り去ることなくそのまま置いていたというのは不可解であり、そもそもその花瓶が自動ドアガラスを破壊しようとしたそれではなかったからではないか、遡って考えると、水が入ったままであれば重くて自動ドアガラスを割るのにさらに都合が良さそうなのに、なぜ犯人はわざわざ中の水を捨てて軽くした花瓶で割ろうとしたのであろうか、犯人は、エントランスホールに侵入する際は店出入口ドアの鍵の近くのガラスを窃盗犯人の職業的な手口を窺わせる方法により上手に損壊しているのに、内側の自動ドアのガラスの方は花瓶で破損する粗暴な方法を採ろうとしたのであろうか、自動ドアガラスの破壊が同女の思い過ごしであったとしても、犯人は花瓶の水を捨ててどうしようとしたのであろうか、といった疑問が生じ、ひいては同女の目撃状況の正確性に疑いが抱かれる。

7  中田百合子は、本件犯行時、被告人のことを気にかけていなかったと証言し、検察官は、同女に虚偽の被害申告をしてまで被告人を罪に陥れる理由は全くなかったと主張する。

よって、検討するに、証人中田満、同中田百合子及び同小山伸明の各証言、陳述書(甲37)、被告人の公判供述、検察官調書(乙12)、警察官調書(乙1、2)、犯罪歴照会結果報告書、判決書謄本によれば、以下の事実を認定できる。

被告人は、平成二年一〇月から月三〇万円の前払い家賃の約定で本件店を借りてビリヤード場を経営していたが、約定どおりに家賃の前払いをすることができず遅れ気味であったところ、家賃を二重払いしていたのではないかと疑うようになり、家賃を取りに来た中田百合子に対し、領収書の控えを持って来るよう要求したところ、同女はそのようなものはないとして、店にも来なくなった。被告人は平成八年一一月分までの家賃は支払ったものの、同年一二月分については、同女が集金に来ないため支払わずにいたところ、同年一二月二九日本件店の出入口に「甲野太郎様家賃未払いの為立ち退き申し上げます。平成八年一二月二十九日大家」と大書した貼紙を出された。被告人は、不当と考えたものの、右貼紙を出されたためビリヤード場の経営を止め、家賃の二重払いの有無の確認を求めて店内で寝泊まりしていた。平成九年一月下旬、中田満が契約書上の賃借名義人である被告人の知人小山伸明に家賃の支払いを求める書面を送ったところ、右小山が訪ねて来て、被告人と話し合うよう要求し、中田満が、被告人を捕まえることができないと言うため、右小山が、本件店内にいた被告人を連れて来た。被告人は、中田満に話し合いを求めたが、中田満は、「今日は忙しいのでだめだ。」などと言って拒否した。中田満は、同年二月六日、右小山宛に、本件店の賃貸借契約の解約と一週間以内に荷物を撤去しなければ処分すること等を内容証明郵便により通知し、さらに同月一四日家賃の残金の支払いを求める内容証明郵便を差し出し、弁護士に依頼して同年三月一二日滞納家賃の支払催告と賃貸借契約の解約の通知をした。被告人は、同月一五日覚せい剤所持容疑で逮捕され、同年五月二八日執行猶予付きの懲役刑判決を受けて釈放されたが、その後は本件店に戻らず、中田満・百合子は、本件店の整備をして同年一二月中旬ころからビリヤード場の経営を始めた。

右認定事実によれば、中田満・百合子は、六年以上にわたり被告人に本件店を賃貸してビリヤード場を経営させ、被告人から家賃の二重払いの問題提起に適切な対処をしないまま、被告人が家賃を支払わないとして賃貸借契約を解除し、自らビリヤード場を経営していたのである。被告人が、当公判廷で提出した領収書(平成一一年押二七九号の1ないし3)によれば、被告人の家賃二重払いの疑問にも根拠があることや、被告人が覚せい剤を使用していたことを中田百合子らは知っており、同女らはそのような被告人に強い危惧の念を抱いていたこと(証人中田恵理香の証言)、被告人が本件店の自動ドアの鍵を持ち去ったことから、右自動ドアの内側に心張棒をして施錠していたのであり、その外側にも施錠できる店出入口を新たに設置したこと(中田百合子の証言等)からすると、中田百合子らが、追い出されて路頭に迷った被告人が舞い戻ってくる不安を常日頃抱いていたことは否定し難く、中田百合子が虚偽の被害申告をしたものではないにせよ、同女がエントランスホール内にちん入していた浮浪者風の人物を見て驚き、被告人と誤認した可能性はある。

四  (被告人のアリバイ主張について)

被告人は、「本件前日、知り合いの女性と会うため少しおしゃれをし、グリーンのスーツに黒のロングコートを着て西荻窪駅へ行き、午後九時三〇分ころ電話をした。同女から、都合が悪くなったので明日でもかまわないかと言われたので、明日の夜また来ると言って電話を切った。予定がなくなったので、近くにいる友人坂本一夫の家に電話をかけてエヴァンゲリオンのビデオを見ないかと誘い、午後一〇時ころ同人方に行って一緒にビデオを見た。同人は午前零時ころ寝てしまい、一人でビデオを見て午前四時すぎくらいに寝た。午前九時か一〇時ころ目を覚ますと、坂井君はいなくなっており、机の上に仕事に行って来るという書き置きがあった。それを見てそのまま寝てしまい、再び起きたら午後七時か八時になっており、坂井君は帰宅していた。女性と約束していたので、坂井君にちょっと用事があるから帰ると言って、同人方を出て西荻窪駅へ行き、同女に電話をかけたが、本人不在の音声が流れていたので、電車に乗って母の家に帰った。」旨本件当日の行動状況を供述してアリバイを主張している。

右坂井は、捜査段階で、被告人の右主張を裏付ける供述をし(甲11)、当公判廷にも証人として出廷し、「本件当日午前七時二五分から同三五分ころまでの間に自宅を出たが、そのとき被告人が自宅にいたことは間違いない。被告人は、濃いめのグリーンのスーツ上下と黒いロングコートを着て、ポケットにビデオテープを入れて訪ねて来た。私は一二時ころ寝た。翌朝仕事に行くという置き手紙をして自宅を出たが、出て行くとき被告人はぐっすり寝ていたような感じだった。帰宅してみると、被告人は朝と同じようにスーツ姿で寝ており、外へ出かけた様子はなかった。被告人は午後七時か八時ころ、ちょっと行くと言って出かけた。」旨証言している。

右坂井が捜査官に提出した右ビデオテープ二巻を解析したところ、そのうち一巻にはアニメ漫画「エヴァンゲリオン」第一話ないし第一六話が合計五時間四九分二三秒録画されており、もう一巻は録画時間が六時間四分三二秒で右アニメ漫画第一七話ないし第二五話のほか映画版二話が録画されている(甲12ないし15)ことからすると、前者のビデオの録画時間が約五時間五〇分であって、午後一〇時ころ坂井方を訪れて右アニメ漫画を見て寝たのが午前四時すぎくらいであったとする被告人の供述とよく符合しており、午前七時半ころ被告人はぐっすり寝ていたような感じだったとする右坂井の証言も信用できるといえる。

被告人は、その後一旦目を覚ましたもののすぐ寝てしまい、起きたら午後七時か八時ころであったと供述し、その睡眠時間の長さに疑問が生じるが、被告人が、本件当時、「昼間は寝ていることが多く、どちらかというと、夜、活動することが多い状態」(乙3)であり、本件の一か月余り後である平成一〇年一二月一六日に被告人が本件店を訪れて中田満に二五〇〇万円を要求したのは午前二時一〇分ころのことである。同月三〇日に中田満方居宅、翌年二月一〇日に本件店とそれぞれ放火事件が発生しているが、いずれも未明の事件であって、それらの放火も被告人の所為と強く疑われている(中田百合子の証言等)ことからすると、そのような夜行型の被告人が、盛装して友人方に泊まり、午前七時半ころ友人が出勤するや、やにわに起き出して母の家等へ行って迷彩服に着替え、午前八時四五分ころ本件犯行に及び、その後再びスーツに着替えて友人方に戻り、朝と同じ格好で寝ていたとみるのは、当時被告人が右犯行に及ぶような緊迫した状況にあったとは証拠上窺えないことからすると(被告人が二五〇〇万円を要求する行動を起こしたのは本件後のことであり、それまでは何ら被害者とは接触していない)、唐突であり、夜まで寝ていたとする被告人の供述もあながち虚偽として排斥できない。

なお、検察官は、被告人が坂井方からタクシー等を使って母の家に戻り、そこで迷彩色のフード付きヤッケに着替えて本件店に行くことを想定して実況見分をした結果、十分犯行時刻に本件店に到達できることが判明したから、被告人にアリバイが成立しないことは明らかであると主張する。しかし、被告人が本件当時タクシー等の車を使って行動していたことは明らかになっておらず、捜査段階では、被告人が右坂井方から徒歩、電車、バスにより本件店に直行したことを想定して実況見分を実施し、その所要時間が約一時間であったことから、被告人のアリバイ主張の不成立の捜査結果としていた(甲16)ことからすれば、検察官の右主張・立証は被告人のアリバイ主張を覆すに足りるものではなく、被告人が前記ヤッケを近いところに保管していた可能性も十分に考えられるというのも検察官の憶測の域にとどまる。

五  (結論)

そうすると、唯一の積極証拠である中田百合子の目撃証言は、その目撃状況及び犯人識別の正確性を裏付けるに足りる証拠がないばかりか、かえって矛盾する証拠もあり、誤認の疑いが払拭しきれず、他方、被告人のアリバイの主張が排斥し難いことからすれば、有罪認定をするに足りる程度に犯罪の証明があったということはできない。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官奥林清)

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